講演会の様子
郊外住宅の原点とは?街づくりの理念と軌跡を辿る
現在、高級住宅街として知られる田園調布一帯は、かつて乾燥地であり農業には不向きな雑木林や畑が広がっていた。染野氏は「当時の地元住民には魅力的な土地ではなかった」と語る。しかし、都市化が進む中で、自然と都市機能の共存をめざす新たな住宅地の構想が動き始めた。
構想を掲げたのは、500社を超える企業設立に関わったとされる渋沢栄一。20年ぶりに新たな一万円札の肖像となった実業家の名は、田園調布と切っても切り離せない。1840年、埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた渋沢は、一橋家に仕官し、後に第一国立銀行(現みずほ銀行)頭取を務めるなど、日本資本主義の父と呼ばれている。
開発以前の調布村(現・田園調布)付近(大正10年)
大正7年(1918年)、わずか3年で48万坪以上の土地が買収された。社内に鉄道部門を設け、後に目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)を立ち上げたことが開発を加速させた。自らは相談役の立場をとりつつ、理念を託す形で開発を後押しした。土地はすでに買収されていたが、鉄道建設に必要な技術者が不足していたため、鉄道部門を分離・独立させ、後の目黒蒲田電鉄(現・東急電鉄)が設立されることになる。鉄道院出身の五島慶太を起用し、インフラ整備と街づくりが一体となって進行。大正12年の目黒線開通は、通勤圏住宅地の誕生を決定づけた。
1920年(大正9年)、渋沢は田園都市株式会社の創立委員長に就任(翌年設立)。渋沢の支援を得て動き出した開発の鍵を握ったのが、地元の畑弥右衛門氏。元東京市長・尾崎行雄の紹介を得て、飛鳥山の渋沢邸を訪ね、構想への理解と支援を取り付けた。
街づくりはエトワール(放射円状)型を採用。曲線と放射線が交差するヨーロッパ風の街路構造を導入し、都市の整然性と自然景観の融合を目指した。駅周辺には文化施設や田園コロシアムなども整備され、計画が動いていきつつあった。パンフレットには「空気と地質の良さ」「都心から1時間以内」「病院や学校などの整備」「文化生活を志向する人のための住宅地」など、今日にも通じる理念が明記されていた。
半円のエトワール状の街路形式を採用
さらに先へ、時空を超えて再び再建築
染野氏は講演の中で、「田園調布は地元にとっても未開の土地だったが、民間の構想と鉄道インフラの整備が、100年後にも残る住宅地を創出した」と語った。緑地や区画の維持など、現在も当時の構想が色濃く残る田園調布。講演では多摩川や大井町との関わりにも触れつつ、「地域の記憶をひもとくことで、未来の都市設計にも示唆を与える」と結ばれた。
奥沢地誌保存会の染野氏